Don't Regret 1
後悔だけは、したくない。ありったけの愛を注ぎ尽くしてからでないと、死にたくない。
人生の折り返し地点はとうに過ぎてから、そう強く、思います。
私はバスケが好きで、日本に生まれ、日本に住み、結婚して子供を産んで、幸いにも子供のひとりが私の好きなバスケットボールをやっている、ただのおばさんです。
バスケットボールを知ったのはアトランタオリンピックでした。そこから何年経ったかはもう数えるのも面倒になりましたが、今年はバスケットボールを好きな方々により多く会えた年です。
ともすると1日が家庭と、育児と、仕事だけで終わってしまう日々を恐れて、私はTwitterをはじめて行くことのできない場所の出来事や、誰かがバスケットボールを好きな気持ちを読むことで、毎日を少しでも楽しく過ごせたらと思っていました。
NBA を観て出会った選手のことは以前から書き続けているので、今日は日本で出会ったチームや選手のことを書こうと思います。
それには私の、11歳になった息子のことを少しだけ書かせてください。
去年の今頃、息子は所属しているミニバスケットボールのチームで公式戦に起用されはじめました。私がバスケを好きなことは伏せたうえで、7歳から、彼自身の意思で始めたバスケットボールでした。
住んでいる地域は、クラスの男子の8割近くがサッカーを習っているような場所です。その頃から今までも、バスケットボールをやっているのは学年で息子ひとりきりです。
そんな地区なので、所属しているチームも強豪ではなく、半ばお遊びの延長で気楽にやっていくチームのはずでした。
しかし、チームの方針は公式戦では選手を徹底的に叱り飛ばすものでした。何故できない、邪魔だ、引っ込め、馬鹿、ダメ…ありとあらゆる暴言の類が試合中、飛んで来ました。
好きではじめたバスケをやる場所は、徐々に地獄のような場所へと変わっていきました。練習内容は乏しいもので、何故できないと言われても、他のチームが教えてもらったであろうことを教えられていないのは正式な競技経験のない私から見ても明らかでした。
小さなチームは、親の負担も大きく、いつしか私と息子は毎日のようにバスケでも、それ以外でも諍いが絶えなくなっていきました。
夏のある日、諍いに疲れた私は息子を練習に行かせ、家で娘と過ごしていました。そこに一通のメールが届きます。
息子の態度が良くないから、観に来ないか、と。
他の保護者の方からでした。観にいくと、息子は集中していなかったのか、ミニゲームには参加せず、タイマーを動かしているようでした。コーチは苦笑いするのみで、特にその件については指導はなかったとのこと。
私は息子を練習終了前に帰すことにしました。私は泣いていました。息子を叱り、しばらく休ませます、と伝えました。
練習に行かなくなり、落ち着いてから話し合いをし、息子はバスケは大好きだけれども、どんなに練習をしてもどうせ試合で叱られるのだから、…もう辞めたい、と一言漏らしました。
退部の決断は、謹慎させると伝えて先延ばしにしましたが、息子の目はバスケをやりたい、と言った日とは全く違っていました。
ミニバスケットボールのチームを、移籍することは困難を極めます。ましてや息子は、チーム創始者と同じ地区に住んでいるため、他地区との隣接を理由にチームを移籍することはできませんでした。
それでも、息子も私も、未だバスケットボールは好きでした。その頃の私のTwitterは、愚痴ばかりです。諦めがつかず、悩んだ末、夏に行われていた3x3を気分転換に息子と、行くことにしました。
真夏の灼熱の中、全力でプレーする選手たちがそこにいました。息子は6時間近く、立ったまま、フェンスにかじりついてそれを見つめていました。
帰宅し、息子はコーチに頭を下げ、保護者にも挨拶をし、9月からチームに復帰することを決意します。9月末の3x3の観戦に、再び行きたいとも伝えてきました。
その経緯と、真夏の観戦はTwitterに簡単に載せていたのですが、偶然目にした選手のひとりが、今度は声をかけてください、とリプライを下さいました。
9月の六本木での3x3で、実際にその方とお話しする光栄に預かることができます。最初は選手が自分と話すこと自体が不思議そうだった息子ですが、ハイタッチをしてもらい満面の笑みが溢れていました。
声を掛けてお話しして下さったのは、石田剛規選手です。
いま思えば、単なるファンサービスの1つだったと思いますが、私達親子にはとてもありがたく、素晴らしい出会いでした。
その後開幕したBリーグの、東京エクセレンスの試合を観に行くきっかけになりました。残念ながら観に行った試合は敗戦でしたが、石田選手は二階席にいる私達を見つけて、手を振って下さいました。
敗戦の観戦に、息子の感想は悔しくて眠れない、と言いました。私も、同じ気持ちでした。
息子は真剣に練習に取り組むようになり、エクセレンスの試合で観戦する場所も、徐々にコートの近くになります。コートサイドで観戦した日から、もうここでしか観たくない、と親子で思ったのを覚えています。
エクセレンスの選手全員が、とても優しく真摯で、勝っても負けても前を向き闘い続けていました。息子のミニバスは、懲罰的に公式戦のほとんどをベンチで過ごす日々が続いていましたが、二度と辞めると言うことは無くなりました。
これらの出来事は、あくまで、私達親子の勝手な都合で、勝手な思い入れです。しかし、私達がバスケットボールを再び好きになれる時間を作ってくれたのは、紛れもなく東京エクセレンスというチームでした。
( 先日参加させていただいたエクセレンスファン感謝祭にて、石田選手と隣でお話しさせていただいた息子。一日中、楽しそうに笑っていました。)
Bリーグという、日本のプロバスケットボールのリーグですから、もちろん試合でたくさん勝つことも大切です。しかし、どんなチームでも毎回全て大勝するはずもなく、だからこそ、選手がどんな気持ちで、どれだけ懸命に生きているのかを見ていられる、見せてくれるチームに、私達親子はとても惹かれました。
読み返すと非常に独りよがりで、勝手な気持ちばかりですが、毎回、観に行った試合で息子は得たものがあったと言います。毎試合、瞬きを忘れて、目が乾いてしまい、痛くなるほど見つめていました。
息子は今、最上級生の六年生になりました。9番を付ける予定が、副キャプテンに指名され5番を付けることになり、信頼するPGであるキャプテンと毎回たくさん話し合いながら、スタメンのセンターとして、勝っても負けても、どんな時も、全ての試合に出場しています。
長くなりましたが、タイトル通り、1 です。次回は私自身の個人的な思い入れについて書けたらと思います。
そしてこちら
は少しでも恩返しがしたくて、はじめました。
What is it to "cheer" ?
言霊というものを、私は信じています。
日本は言魂の力によって幸せがもたらされる国「言霊の幸ふ国」とされた。『万葉集』(『萬葉集』)に「志貴島の日本(やまと)の国は事靈の佑(さき)はふ國ぞ福(さき)くありとぞ」(「志貴嶋 倭國者 事霊之 所佐國叙 真福在与具」 - 柿本人麻呂 3254)「…そらみつ大和の國は 皇神(すめかみ)の嚴くしき國 言靈の幸ふ國と 語り繼ぎ言ひ繼がひけり…」(「…虚見通 倭國者 皇神能 伊都久志吉國 言霊能 佐吉播布國等 加多利継 伊比都賀比計理…」 - 山上憶良 894)との歌がある。これは、古代において「言」と「事」が同一の概念だったことによるものである。漢字が導入された当初も言と事は区別せずに用いられており、例えば事代主神が『古事記』では「言代主神」と書かれている箇所がある。古事記には言霊が神格化された一言主大神の記述も存在する。
自分の意志をはっきりと声に出して言うことを「言挙げ」と言い、それが自分の慢心によるものであった場合には悪い結果がもたらされると信じられた。例えば『古事記』において倭建命が伊吹山に登ったとき山の神の化身に出会ったが、倭建命は「これは神の使いだから帰りに退治しよう」と言挙げした。それが命の慢心によるものであったため、命は神の祟りに遭い亡くなってしまった。すなわち、言霊思想は、万物に神が宿るとする単なるアニミズム的な思想というだけではなく、心の存り様をも示すものであった。
長いですが、Wikipediaから引用しました。私達が操る言葉には、思っている以上の力があると私は考えています。簡単に言うと、ネガティブな言葉より、ポジティブな言葉の方が物事を前向きに動かす力があると信じている、ということです。
普段何の気なしに使う言葉の、発する言葉のひとつひとつが思考ひいては行動に影響するのではないか、と思って生きています。
冒頭の写真は、私が最近応援すると決めた日本のバスケのチームのホームゲームでの一枚です。今年9月から完全にプロ化された、Bリーグ2部、東京エクセレンスというチームです。私が初めて観戦に行ったのは、リードしていたものの試合終了直前に逆転された敗戦でした。
また、私は他の記事でも書いている通り、Kevin Loveという1人のNBA選手を長く応援しています。彼は昨シーズン、自身の所属するクリーブランド・キャバリアーズが初優勝したメンバーの一員です。彼にとっても、初優勝でした。
スポーツ観戦は、私の長年の趣味です。スポーツの種類を問わず、誰かを、何処かのチームを幼い頃から応援するのがとても好きです。
ケビンラブという選手を応援して、気づけば6年目になりました。彼自体の成績が良くとも、チームでは20勝にすら届かない時代、オリンピックで金メダルを得てもシーズンでは怪我が多く殆ど出場が叶わなかった時代、壮絶なダイエットを経てチームやメンバーと摩擦があり思うような結果が残せない時代、チームを移籍しバランスに苦心する時代、噛み合ったと思っていた矢先に不慮の怪我で戦線離脱を余儀なくされた時代を経ての、初優勝でした。
色々な出来事があり、私自身も就職から結婚や出産を経て、再就職し…色々な出来事がありました。が、いつ何時も、応援することを辞めようと思った日は片時もありません。
応援すること、というのは、一見、私自身の人生には何の関係もないことのように思えます。勝つのも、負けるのも、苦しむのも努力するのも、私自身は何もしていません。ただ観戦し、一喜一憂するのみ。
それでも私は、自身の結婚や出産や、自分の人生の出来事のひとつひとつと同じくらい、応援して一喜一憂することは心を大きく動かされるものです。
Twitterというツールができて、応援する人が世界のどこかにいることが判る時代になりました。日々滝のように流れていくタイムラインの中で、絶え間無く世界中のどこかで誰かが、応援し、その切れ端のひとつとして呟きを残していきます。
日々の余った隙間でそれを読むことで思うのは、応援すること、とは一体何なのか、という疑問です。
スポーツは結果が出ます。勝敗がつき、順位が出ます。彼らは、チームは、勝つために、全てに勝つためにその競技をしています。それを仕事にしています。
その過程に、私達…私は寄り添っているだけです。勝手に寄り添わせてもらってるだけ、です。過程においての彼らの喜びや苦しみをまるで自分のことのように享受して、勝手に心を揺り動かされています。
有難いことだな、と思います。スポーツには、喜びを分け与えられる力があり、選手にはそれをただ見ているだけの私に分けてくれる素晴らしい力があります。全ての選手にそれがあると私は思います。
負ければ苦しく、チームが不穏なら私も不安になります。心を引き裂かれるようにもなるし、好き以外の全てに呪詛を吐きたくなる日もあります。
けれども応援し続けて、 最後に心に残るのは彼らから与えてもらった素晴らしい出来事です。勝った喜びだけでなく、敗戦の中での諦めないプレー、もしくはただ必死に走る姿であったりもします。
彼らから与えてもらった思い出は、私の人生の中に入り込んでいます。好きになって思うのは、いつまでも、いちファンのひとりであり続けたい、ということです。与えてもらってばかりで何ひとつ返せるものはないけれど、せめて、彼らの望みが叶うように、祈り続けていたいのです。
私は言霊を信じています。発する言葉には力があると信じています。その力は、物理的な距離や、経過した年数は関係ない、と思って生きています。
ひとつでも多く勝ちますように。
素晴らしい喜びが彼らやチームに訪れますように。
Bruin Walk
お久しぶりです。ゆりあです。
ラブの書いたこちらの記事 http://www.theplayerstribune.com/kevin-love-ucla-basketball/ を読みました。人柄と考え方と文章にとても心を打たれたので、英語は苦手なので稚拙ですが、訳に挑戦しました。
※BruinsはUCLAバスケットボールの愛称です。
※ジョン・ウッデンは生涯勝率8割を越える、UCLAならびにカレッジバスケットボールの名将。現代バスケットボールの礎を築いた知将です。
※ケビン・ラブは2007年UCLAに入学、マーチマッドネスと呼ばれるNCAAチャンピオントーナメントでは、デリック・ローズ率いるメンフィス大に破れ、ベスト4に終わっています。
Bruin Walk
フロントポーチに溢れた手紙の山、それが、僕がジョン・ウッデンの家で最初に目にしたものだった。それは見逃すわけはなかったよ。
よくある家のポストなんかなくて、誰かが全ての手紙が入りきるようにフロントポーチに大きな穴を掘って、フェンスで囲っていたんだ。
手紙や小包はそこらじゅうにあった。
僕はロックスターとこれから話をするんだ---大量のファンレターからそれが察せられた。
ジョン・ウッデンは僕が大きくなるまでのロックスターだった。カレッジバスケットボールの神様。全てのスポーツの中で最多勝のコーチ。スポーツの方法論を実用的に発明した人。
僕は初めてカリフォルニアに、コーチウッデンを訪ねた。僕はコーチがその逸話にふさわしいレジェンドな暮らしをしていることを期待していた。 それはたぶん、フルサイズのバスケコートにカリームアブドゥルジャバーの銅像に、オリンピック級のプールのある家…そうに決まってるよね?
だけど、家は僕が想像してたようなものじゃなかった。コートも、プールも、銅像も、ない。現実だと思えなかったよ。ベットが1つの普通の住宅街の家でさ--- そう遠くないところにコーチウッデン行きつけのダイナーがあって、彼は毎朝そこに行ってコーヒーを飲んで近所の人と談笑してるんだって。
コーチウッデンは僕の家族と僕を玄関で感激してくれた。まず最初にコーチに聞いたのは、手紙の山のことだった。
「全ての手紙を読んでいるのですか?」
僕は尋ねた。
「そういうことになるね」
コーチはそう言って、笑った。
「でも宿題を溜め込んじゃってね」
通してもらったコーチウッデンの居間はすごかったよ。そこらじゅうに物があった。 別に散らかっているわけではなかったけれど、床はちょっとしか見えなかったし、壁は様々な彼の人生をあらわすもので埋め尽くされていた。UCLAのユニフォーム、カリームアブドゥルジャバーとビルウォルトン、あと数々のBruinsの素晴らしい選手の写真、ボブルヘッド人形、細々したもの、Wheaties(有名アスリートがパッケージに載るシリアル)の箱、アメリカ国旗、トロフィーと積まれたビデオテープ、額に入った先立たれた妻のネルの写真、そして家族達。
あとは本、沢山の、ほんとに沢山の本。 本棚に入りきらなかった本は、床に積まれていた。
そこから一冊、コーチは本を取り出した。それは「Civil War(南北戦争)」だった。
「きみは歴史は好きかい?」
コーチが僕に問うた。
歴史は好きな科目の1つだと答えた。 コーチはリンカーンの演説の一節を読誦しだした---全てを覚えていたわけではなかったけれど、いくつかの部分を。 僕はじっと見つめることしか出来なかったよ。
コーチはバスケについてや、コーチ自身について話すのを好まなかった。そして、コーチは僕の性格や、友人達、家族、そしてスポーツ以外で興味のあることを知りたがった。コーチは僕に100ほどの質問をしてきた。僕は良い答えをしようと全力を尽くしたよ。 高校で素晴らしいキャリアを残しNBAに行こうとする野心から外れて、話したのは故郷オレゴンのレイクオズヴィーゴの、小さな湖で取れた大きな魚のことだった。 その日、僕は小さくなった気分だった。僕がコーチウッデンの敬意が得られたのか、すごく気になったよ。
コーチはとても鋭く聡明だ。コーチウッデンは当時既に90歳代だったものの、そのウイットと知性で彼の周辺には未だに人が絶えなかった。
ここに良い例がある。来訪した時、居間で僕の妹と僕はコーチの向かいに座っていた。僕の妹はとてもシャイで、来てから一言も喋らなかった。でも僕がコーチと話す数分毎に、コーチウッデンは話を止めて僕の妹の方を見た。
「で、何を言ったっけ?」彼は言い、
妹が質問をしたふりをしてくれた。
やっぱり、妹は一言も喋らなかったけどね。
そうして、コーチはにっこりしてから、僕との会話を続けた。
コーチは皆が会話に参加してるのを好むんだなと思ったよ。コーチが質問してきたみたいに、今やれって言われたら、同じようにできるかい?
最初に大学で会ったチームメイトは、ラッセルウエストブルック。僕は校内を歩いていたんだ。高校から出てすごく新鮮な気持ちで、新しい髪型で意気揚々としながら(前まではママが切ってくれてたからね)。僕はバスケならよく知ってたけど…他のことは世間知らずだったんだ。ラスはその時もう2年生で、バッチリキマってて自信ありげで…ルーフ越しにこう言ってきた。
「Hey man」
「そのバックパックどこで手に入れたんだよ?」
周囲の人は足を止めて、ラスが僕に声をかけたのを聞いてた。ラスはその頃から群衆を惹きつけるんだ。彼のニカっと笑うあの笑顔でね。 僕はリュックが褒められてないなぁと分かったんだけど。
何か言い返す前に、ラスが続けたんだ。
「Damn, how big are those Jordans?」
ああ、ラスは僕を試してるんだなって思ったよ。その時僕は彼のことが大好きになるって確信したんだ。
ラスと僕はロードでのホテルで最後までルームメイトだった。 僕らは、同じ目的で高校からここに来てたから、打ち解けるのに時間はかからなかったね。僕らはホテルの部屋でゴロゴロしてるとき、いつもNBAに入ったときのことを話してたんだ。
時々、ラスはすごく頑固なルームメイトだった。僕たちはすぐ競い合ったから、しょっちゅう対抗してたよ。それがテレビゲームでもね。 僕らは「13」(大富豪のようなカードゲーム)もやったし(僕はあれは僕が1点勝ってるって今でも思ってるよ)、どっちが早くジムに着くかとか(どうにかしてラスは僕より早く着こうとするんだよ)、 リフティングも、ビデオ研究も、シューティングも全部そうさ。
僕らは部屋の設定温度でさえ揉めたんだ。
ねえみんなは「ラリーのミッドライフ★クライシス」(アメリカで人気のコメディ番組)でラリーがサーモスタットを調整しまくる回を見たことある?それはまるで僕とラスさ。
「74℉(約23.3℃)まで」ラスは言う。
僕は涼しくするのが好きなんだ。68℉(約20℃)くらいが、完璧。
夜にラスはベットから飛び上がって設定温度を上げて---その5分後に僕が設定温度を下げる。一度交渉してみたんだよね--- 「じゃあ71℉(約21℃)ってことにしない?」
「73℉(約23℃)」
ラスの返事。
「これ以上の妥協はない」
こんなのあり?ほんっと頑固!
しばらくすると、ラスの違った一面も見ることが出来た。ニーナという名前の女の子のことを初めて話してくれた。彼女はUCLAの女子バスケットボールの選手だった。ラスは彼女のことをたくさんたくさん話してくれた。
昨夏、僕はラスとニーナの結婚式に参列した。それはBruinsにとってほんとにおめでたいことだよ。何年経っても、僕らはファミリーのようなものなんだ。
17歳でウエストウッドのコーチを訪ねた時、著書(「Wooden: A Lifetime of Observations and Reflections On and Off the Court」)を頂いた。僕はそれに一度目を通して、あとは高校のバックパックの底にしまいっぱなしだった。
まだ、どの大学に入るか決めていなかった。ノースカロライナに、僕はかなり興味があった。地元オレゴンから、シャーロットのチャペルヒルまで向かう時のことを覚えてるよ。フライトの間に、コーチの本を取り出してもう一度読んでみたんだ。 そして子供の頃から長年の夢だったロイウイリアムズに会って、マイケルジョーダンを有名にしたキャンパスを訪れた。
でも着陸する前に、僕の心は決まっていたんだ。
今までの人生の中で、UCLAで過ごしたあの一年間が最良のひとつであったと記憶している。それはあっという間に過ぎ去ってしまったけれど、コートでたくさんの素晴らしい思い出があったんだ。対カリフォルニア大での、ジョシュのあり得ないようなショット。NCAAトーナメント二回戦、対テキサスA&M大で逆転勝利に導いた、ダレンコリソンのヒロイックな活躍。カンザスシティの対メリーランド大での、リックリチャードバーアムーテのスリーポイントウィナー。ファイナルフォーでの、強敵メンフィス大に対してラスの本当に勇敢なパフォーマンス。
僕たちはNCAAチャンピオンになりたかったが、勝つことは出来なかったけれど、僕らにとって何よりも有意義だったのは僕らが創り出した関係性だった。僕らはチームであり、ファミリーだった。一人ひとりがチームに唯一無二の存在であり、僕らは20年の中でドンピシャで同じ時代に、出逢うことが出来たのだ。
UCLAは常に僕の故郷だ。だから、僕は僕が受け取った自分の全ての恩返しをするため、ギブバックすることを決めました。ケビンラブのバスケットボールのキャリアを形づくった場所に、ただギブバックをするだけという意味なのです。 だから今年僕はMo Ostin バスケットボールセンターの建替に寄付をして---特に新しい強力なコンディショニングセンターが、The Kevin Love Strength and Conditioning Centerと名付けられることにとてもエキサイティングしています。
僕はいつの日かUCLAで子供達にも何か手助けしたい。 僕が見出してもらったように、僕も誰かの才能を見つけ出したい、なんてそれはスペシャルなことなんだろうか。
「戦えるヤツ」
どの試合見ててもそうだけど、上手い下手以上に戦えるヤツと戦えないヤツがハッキリ分かるよね
— Mayu (@mayu_0630) 2016年4月24日