Love’s diary

偏愛、寵愛、やっぱり最愛。

ファンって、なんだろうね?

私は、金銭や行動の強弱に関係なく、好きだー!と思ったのなら、それだけで「ファン」になったのだと思っています。

 

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お久しぶりです。ゆりあです。

1年ぶりのブログですって。

駆け抜けた1年間でした。

今も全力疾走してますけども。

 

今回はゴリっと結論から書いたので、御託の嫌いな方はもう閉じていいと思います笑。

 

お付き合いくださる方は、もう少し。

 

ありがとうございます。

 

さて、夏は昨年のブログからもですが、応援について毎年悩んでいるのですよね、私は。

 

馬鹿なんじゃないのか。

 

でもありのままをまとまったかたちて書くのがこのブログなので、おバカでもそれを見つめます。

 

私は1人の選手を応援するスタイル、ってことに(現在のTwitterのキャラクター上では)なっています。ルーク・エヴァンス選手です。

 

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すてきー!推しが尊い〜!(汎用型の台詞)

昨シーズンの3x3プロリーグ、premierEXEのプレイオフ優勝&MVP&シーズン得点・リバウンド王を獲得した選手なんですよ。

私は彼のバスケットのファンです。

 

 

ブログを書くにあたり、ツイートをしました。

リプライツリーに皆様書いてくださりありがとうございました。また、メッセージでいただいた方も全て読ませていただきました。ありがとうございました。

 

私の結論は最初に載せましたが、皆様の意見も拝読させていただくと、その解釈には色々な範囲や考え方があることがご理解いただけると思います。

 

ただ、そう極端なものはなく、読ませていただいて思ったのは

 

 

みんな大好きなんだよね、その応援したり、夢中になったりしている対象のことが。

 

 

という、温かいものだったという感想です。

ブログを読まれている皆様は如何お思いでしょうか。

 

議論や、討論をするつもりもありません。貴賎があるわけでも、階層や序列があるわけでもないと思うから不要だという考えです。

 

ごく当たり前の話ですけれど、人間はそれぞれ違う人間であり、その想いは人それぞれです。社会的な立場も、家庭の事情も、生き方や仕事も、好きの方向性もまちまちです。

 

だから世界は成り立っていると思うのです。

 

人間は生き残るために多様な特徴や思想を受け入れることで発展してきたと思っています。

 

少し主語が大きくなったので戻します。

 

バスケを観る人の話でした。

さて。

バスケ観戦は生きるために必要か。

 

究極的なことを言うと絶対的に必要なわけではないと思います。1週間7日のうち、どんなに試合を詰めても平日開催と週末の、うち3日が最大ですから、そうでない4日の方が人生として多いわけです。

私は多い時でも週1くらいなので、単なる余暇に過ぎません。

 

でもね、それ以外の6日の間に、一度でも。

 

夢中になったもののことを思い出す日があれば、それはもう「ファン」になったのかなぁ、と思ったりします。

 

そして、私なりに限定するとすれば、元々好きで(スタートはファンとしても)そこからスポーツ関連の仕事なり、スタッフなり、スポンサーなりと、形態を変えている方々はファンからカテゴリを変えた(これは是非を判断しているのではありません)のかなと感じています。

 

また、ブースターだからファンではないとか、ライトだからファンでブースターになれていないとか、そういうこともない、と思っています。それぞれの応援している人々の呼称に関しては、それぞれが大切にしていることを尊重はすれど、そこに序列が発生するわけではない、と思っています。

 

みーーんなファン!みんな一緒だよ☆

 

という、キラキラしたお仕着せがましい強制をしているわけでも、同じ方向を向いてひとつになろう、とも思っていません。

 

他方向から色々なアプローチでそれぞれが夢中になることを楽しめばいいと感じています。

 

多様性は生き残りの手段だから。

 

業界やらバスケ観戦人口の方面から考えたとしても、あれこれあった方が人を呼べるコンテンツになるのではないかな、と思っています。

 

しかし、人には感情や信条がありますから、どうしても、自分と相容れないスタンスを取っていると、戸惑うこともあるのは仕方のないことです。

 

それを、排除したりするのではなく、どちらが正義かという結論の出ない追いかけっこに参加するでもなく、寛容さは大切かと思います。

 

私は私をバスケの好きな(特に好きなバスケのプレーをする方をメインに観ている)ファンだという自覚を持っています。

 

要するにただのファンです。何者でもありません。

 

何者でもないからいい、楽しい、と思っています。

 

ファンとしてバスケを観ている間は、私は普段の子供達のお母さんでもなく、仕事の立場もなく、どこに住んで過ごしているかも関係なく、たまたま同じ場所で楽しんだ方々と平等に「ファン」という無名の存在であることが気楽で、楽しいのです。

 

有名なのは、有名になってほしいのは、選手です。チームです。自分ではありません。

 

ファンは無力で、勝っても負けても観て帰ることしかできないのですけれど、才能ある方々の素晴らしい努力を誰しも等しく観られる幸運がありがたいと思っています。

 

ただ、少しだけ、ほんの少しだけ気になることがあります。ファン…ではない側が、「ファン」の定義を狭めている場合が無きにしも非ずなのかな…と感じることだけが気になります。

 

回りくどい言い方は苦手なので書きますが、

 

メインターゲットを絞りすぎじゃない?

 

ということです。

 

若くてオシャレでイケメン投票しないといけない、とか

どんどんお金を寄付していかないと応援しているとみなされない、とか

素晴らしい機材を取り揃えて一瞬を切り取るべきなのか、とか

団体を形成してそのポリシーに従わないと扱いが変わるのか、とか

偉い人や関係者に接近してアクションをしなければならないのか、とか 

また逆にルールやジャッジに関しては無知でいるべきなのか、とか

 

そういうことです。上記のはただの一例ですが、私は夢中になればほとんどがストリーミングで見ていてもファンだと思っているので、極端に絞られると、正直違和感はあります。

 

だって、好きになった後で、自分は好意を向ける方々にとっては、対象外なのかと思う悲しみは計り知れないから。

 

もう一度書きます。

 

多様性は生き残りの手段です。

 

自由に自分らしく好きでいられますように。

 

 

2019.8.  ゆりあ